前世のない俺の、一度きりの人生 * 「グラス、別のに変えてみてもいいか」 「勝手にしろ」 「どれにしようか」 グラスの並ぶ棚を端から端まで眺める。このラベルよろしく、台形で角の多いグラスに決めた。 あぁ、楽しい。 「白割だからな。その樽が白だ。7対3で」 「注文が多いな。あ、霜氷はいらないんだったな?」 「そうだ」 俺は樽の口にある取手を右に捻る。白は3だったな。慎重に。 「うおっ」 「やると思った」 「………ごめん。白7でいい?」 「鳥に謝れ」 「ひとまず、アナタに謝った事に誤りは無い筈だが!?」 捻り方が強すぎたのだろう。白酒は見事、グラスの7割を占めていた。 出てしまったものは仕方がない。ともかく早く酒を作らねば。俺が飲めない。 「……狭い場所に、無理にモノを置こうとしない事は正しい」 男の呟くような言葉が、静かに俺の耳に届いた。それが、先程まで話していた俺の部屋の話だと気づいたのは一拍遅れての事だった。 「……正しいも何も、置く場所がないんだよ。俺の部屋は多分アナタの想像以上に狭い」 「俺はスペースに置ける物の割合の話をしているんだ。一定の空間にやたらの物を置きたがる奴は多い」 「そういうもんか?」 「モノが多ければ整然さは失われる。それを悪いとは言わないが、狭い場所にセンス無く置かれた物体が多いのは見苦しいだけだ。その辺を理解しているアンタはバカじゃない。センスも、悪くはない」 俺が白酒を持ってカウンターに戻ってきたのと同時に男が口にした言葉は、はっきりと俺に向けられた褒め言葉だった。酔っているのだろうか。口数も多い。 「…………!」 いや、酔っていたって嬉しい。なんと言っても、俺を鳥以下とのたまうこの男からの褒め言葉だ。お世辞ではないと思いたい。 俺は少しだけ背中がムズムズするのを感じながら、カウンターにある自分の酒を一呑みした。そして、急いで自分のグラスを洗う。 「部屋に愛着がないのは、その部屋にアンタが自分で選んだものがないからだろう」 「多分、そう。なんもないし、あの部屋。愛着湧かすモノがない」 「……おい、零すなよ」 「わかってるって」 男は、眉を潜めて言葉を挟んできた。その視線の先には、注ぎすぎた白酒を、今しがた洗ったばかりの俺のグラスへ注ぎ分けようとしている俺の手元。 俺は慎重に白酒を自分グラスへ注ぎ込む。すると、一滴も零れる事なく、2つのグラスの3分目程に白酒が行き渡った。 ほら、丁度良い具合になったじゃないか! 「な?」 「いいから早くしろ」 「そうだな!早くこの酒が飲みたい」 「…………」 俺は男の命令……いや、自身の欲に従い真四角の透明な酒をグラスへ注いだ。その瞬間、なんとも芳醇な香りが鼻孔を通り抜けていく。 癒やされる。この匂いはなんだか体全体的の力を抜いてくれる不思議な匂いだ。 「この香りもいいなぁ」 「その酒は西部の特殊な木を発酵させて出来ているからな」 「木の酒なんてのがあるのか!凄いな!」 「木を原材料にした酒はそう多くない。森の匂いを凝縮しているとも言われている酒だ」 「へぇ、通りで。なんか癒やされるとおもったよ。……はい」 「………」 俺は男へ酒を渡すと、すぐに自分のグラスにも酒を注いだ。白酒と混ざり、白酒の透明度が増す。ぱちぱちと酒の中に空気の泡が浮き立つ。 俺が酒を注いで顔を上げれば、男はまだ酒に手をつげずにいた。自然と、待ってくれているのだと分かった。 分かったけれど、敢えて口には出さず、俺はまたしても男のグラスに自分グラスを軽くぶつけてやった。 「かんぱい」 「部屋の話だが」 「え、あ、うん。部屋の話ね」 俺の乾杯と同時に男は口を開いた。手はグラスの縁をツルツルとなぞっている。意外にも俺の部屋の事を真剣に考えてくれている事が驚きだった。 俺なんかはもう目の前の酒に夢中だというのに。 「狭い部屋でも、家主の選択権の許されるものが2つある」 「え!なになに!」 聞きつつ、グイと一呑みする。どこか癒やされる香りと共に、本来持っているであろう強い風味が白酒によってまろやかになっている。一度、ロックで呑んでみるのも良いかもしれない。 「光と香りだ」 「へ?」 「……灯燈の種類や色を変えてみると印象が大分変わる。借部屋でもその辺は簡単に変えられるようになっている筈だ」 「灯燈だけで変わるもんなのか」 確かに部屋の灯燈は色砂の調合の仕方によって簡単に変える事ができる。 しかし、だからといってそれだけで変わるだろうか。俺の部屋の灯燈は部屋を借りた時のまま、白を基調とした一般的な明かりをしている。 「やってみればわかる。此処も場所によって灯燈の色砂を変えている。カウンターは黒だ」 確かにそうだ。俺は最初にここに来た時の、あの、えも言われぬ程の怪しげで心躍る感覚を思い出した。そう、この酒場の怪しげな雰囲気を演出している、その大部分は灯りによるものだ。 カウンターは男の言うように他と違って灯りを大分抑えた色味をしている。それだけでなく、よく見れば各テーブル付近の灯りは、しっかり見なければ気付かない程度にオレンジ色を濃く作ってあるようだ。 「ほんとだ」 「この酒場内だけで15種類は場所によって灯りの色味を調整している」 「すごいな!」 「インテリアと同様、灯りというのも常に視界に映るものだからな。それで大分印象が左右される」 「じゃあ、俺の部屋も、狭いけど場所によって灯りを変えたりするといいのか」 「狭い部屋の場合、場所というかその時の状況によって色が変わるように、色砂とマナ水を調整するのがいい。普段、モノを書いたり、本を読んだりするときの灯りと、寝る間際にかける色味を変えるといった使い方がいいんじゃないか」 「待って、待って。ちょっと、メモさせて」 「このくらい、メモせずとも覚えたらどうだ。鳥はメモできないんだぞ」 「あいにく俺はれっきとした人間なんでね!」 いつまで俺と鳥と俺を引き合いにすれば気が済むんだ。しかし、男はそんな俺の憤りなど知ってか知らずか、口元に薄い笑みを浮かべたまま、クイと一気に酒を飲みほした。 良い飲みっぷりじゃないか。 「なぁ、この木の酒ってやつさ。ちょっとロックで飲んでみたいんだけど」 俺は鞄の中から手のひらサイズの小さな手帳を取り出しながら聞いてみた。こんな事もあろうかと仕事用の鞄をそのままひっつかんで出て来た甲斐があった。 まぁ、何も考えずにひっつかんで来ただけなんだけど。 「気に入ったのか」 「ああ!特にこの木の香りが良い。落ち着くし、癒される。出来れば白で割る前のも飲んでみたいんだよ」 「強いぞ、いいのか」 「これで最後にしておくから大丈夫」 手帳にペンを走らせながら、俺は残った白割の酒をクイと飲み干した。やはり爽やかな香りが鼻孔を心地よくすり抜けていく。 すると、予想外にも目の前には既に別のグラスで先ほどの酒のロックが用意されていた。 「あ、ありがとう」 「何をそんな驚く」 「いや、また自分で準備するんだとばかり……」 殆ど呟きに近かった俺の言葉に、男は反応する事なく空になった、その独特のシルエットをした酒瓶を見て「また買ってこないとな」と独り言ちていた。これが正真正銘この酒瓶の最後の酒のようだ。 大事に頂こうではないか。 「部屋の香りは木の香油を使ったらどうだ」 「あぁ、確かに。それいいかもな!」 「光も香りも一定空間を要せず、しかし、視覚、聴覚に常に入ってくる情報だからな。気に入ったモノを選べば、おのずと部屋に愛着も沸くだろう」 俺は目の前におかれた、白割よりももちろん強いスパイシーとさえ思える木の香りに、早く口を付けたくて仕方がなかった。しかし、同時に男から香りについての情報が滝のように勢いよく流れてくる。 「北部に群生する針葉樹。まだ先だが、寒くなる時期には心身を温める効果もある。香りはこの酒の香りとよく似ている」 俺は仕事で培った手元を見ずに素早くメモを取るという普段ではあまり役に立たない特技を使う時が来たと、カウンターに手帳を置き、静かな男の語りに耳を傾けた。男の声は、今更だがとても心地よい。この酒が木から作られているのだとすれば、男の声はまるで木々が風に揺れる囁きのようだ。 「…………」 いかん、こんな事を思うなんて、完璧に酔いが回りきっている。 しかし、酒は飲ませてもらう。 せっかく男が注いでくれた酒だ。我慢できない。 [*前へ][次へ#] |